前回こういう記事を書いた後にあんな事件が起き、とても切ない気持ちになっている。なんら責められる必要のない幼子の命が奪われるという事実を思えば、罪びとに同情する余地はありえない。また、犯行の残虐さや救いのなさから、おそらくあの女性は程度がどうあれ精神的な問題を抱えていたと思う。が、そうなるに至った理由を、個人の資質だけに求めてしまっていいのかという思いもある。今回の事件が「特別な出来事」であるようには私は思えないのだ。
報道では彼女が日本語が不自由なことを気に病んでいたとされている。だから、他のお母さん方に馴染めなかったと。
確かに言葉がうまく操れないというのはとてもつらい。私自身、海外で生活した際、娘の通うアメリカンスクールに迎えに行くのは憂鬱だった。放課後、子供たちがプレイグランドで遊ぶ間待っていると、他のお母さんから英語で話しかけられるのは怖いくせに、まるっきり近寄ってこられないとなんだか不安になった。大勢で会話が始まれば、「えっ? それってどういう意味?」と聞くタイミングが見つからず訳もわからずににこにこしたりして、沢山でいるのに却って孤独な気分になったものだ。
言葉は生き物だ。聞いた言葉そのものだけが伝えるものであるとは限らない。言外にこめられた意味だってある。文化的な背景を知らなければ分からなかったりし、「本当にこういう意味でいいのかな?」と不安になることもしょっちゅうだった。
ましてや日本には暗黙のルールが多い。日本で暮らす外国人が真面目な人であればそれだけ、疑心暗鬼になることも多いだろう。でも、そういったものに極限まで追い詰められてしまったのだとしたら、それは、幼稚園という環境も大きく影響していると思う。
幼稚園はもちろん子供のための施設である。子供たちが集団で遊び、いろんなことを学んでいる。でも、その前後の時間は長く、大部分が親たちの意思に委ねられている。帰りに公園に寄り道して遊んだり、互いの家を行き来したり。約束をするのは大抵親たちなのだ。だから、親がうまく周りとつきあっていないと、子供もそういう遊びの輪に入りづらい。自分が子供の世界を狭めてしまっているのではと、余計なプレッシャーになったりする。
本当はそんな時期なんてほんの数年の話なのだ。小学校にあがってしまえば子供は自分で自分の世界を作っていく。でも、渦中にいるとき、人間はそれが永遠に続くような気がしてしまう。一つのつまずきで子供の将来が決まるかのような錯覚に陥る。
私の母が私を育てていた頃、別に公園デビューなんて言葉はなかったし、幼稚園の後母親に連れられて友達の家に遊びに行った思い出もない。いつからママ友なんてものが出来て、これだけ付き合いが濃密になったんだろう。そして、それはどうしてなんだろう。
今は、皆、どうも自分と同じ境遇の人とばかりつきあいたがっているのだと思う。互いに共感できる相手と話していたほうが楽だから。そして、きっとそれで失っているものも多い。そうと気付かずに。
じゃあ、どうすればこの事件を防げたのか。周囲が彼女にもっと声をかけるべきだったのか。一人だけ別扱いすればよかったのか。でも、それはますます彼女を孤独にしただけだろう。ならば味方であるはずの家族は、追い詰められていく彼女にどう対応するべきだったか。たぶん、誰も一番正しい答えは出せない。簡単に答えが出せない分だけ、みんなの心に残した傷は大きい。
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