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私のもの

数年前のある日、夫の後輩から転居のお知らせ葉書が届いた。職場の異動に伴うものだけれど、背景が色々あるので文章は長い。それを一通り読みながらすぐに気付いた。それは、その葉書から一年ほど前に我が家があちらこちらに送った葉書と、固有名詞以外、てにをはまですべて一緒だった。「一生懸命考えたんだけどなあ・・」ああでもない、こうでもないと文章を練ったのは私だったので、なんだか割り切れない思いだった。

私の場合は事実をお知らせする葉書一枚のことだったけれど、それが不特定多数の人の目に触れる場だとまた事情も変わってくるかもしれない。つい最近、とあるブログが別のブログの文章を盗用した(私はパクリという言葉が好きではないので、あえて盗用とさせていただく)というので、ちょっとした騒ぎになっていた。結果として、双方とも閉鎖することになってしまったのだけれど、改めてインターネット上で公開されているコンテンツの「著作権」というものについて考えさせられる出来事だった。

現在、個人、企業にかかわらず、公開されているブログやHPはどれくらいあるのだろう。あまりに多くて見当もつかない。その中であるものは日に何万ものアクセスがあり、一方でほとんどないものもある。でも、どんなサイトであっても、色々な人々の目にふれる「可能性」は確かにある。それがネットの良さなのだが、時に人は画面の向こうに沢山の人がいることを忘れてしまう。自分のノートに書きとめたメモと同じに思ってしまうのだ。その点がネットの存在のあいまいさとも言える。

今回の件で、一部に「こんなことはブログではよくあること」とか「たいしたことじゃない」という言葉が見られて結構びっくりしたが、それもそういったネットの「あいまいさ」からくるのかもしれない。特にブログは昔みたいにHTMLを駆使して構成していた時代に比べてお手軽な分、利用の仕方までお手軽になっている面はあると思う。

でも、だからといって、誰もがみな、適当に付き合っているわけでもない。言葉を一つ一つ選び、デザインにこだわっている人だって沢山居る。皆が同じ心構えでのぞむ必要はないが、そういう人達の気持ちを踏みにじるべきではないと思う。

また、現実問題として、これだけあまたあるコンテンツの中で誰かが私の文章を盗用したとしても(盗用するだけの価値があるかどうかはさておき)、それを見つけ出すのはかなり難しい。例えば、スペイン語あたりに訳されて公開されていたら、まず分からない。でも、だから何をやってもいいということにはならないと思う。それは著作権法のあるなしの問題ではない。

他人のものを大切にするということは、自分のものをも大切にするということだ。「権利」なんていう難しいものではなしに、他人が作り上げたものを尊重する気持ちはやはり必要じゃないだろうか。こういう意識を皆が共有できなければ、ちょっと大げさだけれど、ネット上にクリエイティブなものなどなくなってしまう可能性だってあると思う。

もっとも、私自身法律には弱くて、こうしてブログを書きながらもいつも「これはいいのかな?」と自問自答することも多い。手探りしながら、それでも公開できてしまうところに、ブログの怖さがあるのかもしれない。

ちなみに、ブログサービスを提供している各社の著作権に対する考え方は以下にまとめられているので、ご参考までに。

http://kotonoha.main.jp/2004/11/14copyright.html

本来ならこういった権利に対して利用者に注意を促すべきサービス各社自体、かなり認識に差があるようだ。やはり、勉強しなくちゃいけないことは色々あるなと思ってしまった。

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人形の服

先日田辺聖子氏のエッセイを読んでいたら、市松人形について書かれていた。あの黒髪の着せ替え人形は、もともと着物を着ない裸で売られているものだったらしい。当時は皆和裁ぐらい誰でもできたから、母親は娘のために人形の着物を縫い上げたのだろう。あるいは、年頃になった娘が、練習用に作ったりもしたのかもしれない。

そういえば、我が家にも市松人形大の人形があった。記憶があやふやなのだけれど、確かアンジェネとかいう名前だった気がする(かなりあやふや・・)。それなりに人気があったので、持っていた方もいるかもしれない。そのお人形はきちんとお洋服を着て売られていた。オリーブ色の細かな花柄のワンピースに白のエプロン。下着はいわゆるズロースで、多分、あのスタイルは開拓時代のアメリカの女の子を模したものだろう。

教育方針とやらで滅多におもちゃを買ってもらえない家庭だったから、何かのおみやげで父が買って帰ってくれたときはそりゃあ大喜びだった。妹と二人、いつまでもいつまでもお人形遊びに興じていた。その様子に母も目を細めていたのだろうと思う。ある日目が覚めると、私と妹の枕元に一枚ずつ、お人形の着替えの服が置かれていた。黄色地に鮮やかな花柄。私に作ってくれたワンピースと同じだ。母が縫ってくれたものに違いなかった。

後で聞くと、別に型紙を作るわけでもなく、「適当にぱっぱっと作った」らしい。それでも、そのときの私も妹もうれしくて、友達がくると誇らしげに「これ、うちのお母さんが作ったんだよー」と言っては、もともと人形が着ていた服よりも大切にしていた。そういう時代だったこともあって、セーターやらサンドレスなど母が私に作ってくれたものは沢山あったけど、人形のお洋服のことが一番心に残っているのは何故だろう。それが実用品ではなく、あくまで私たちのお遊びのものだったからなのかもしれない。

振り返って、私は娘に心に残ることをしてあげられているかと反省してしまう。私も不器用をおして娘にセーターを編んだり、自分のコートやワンピースを娘用にリフォームしたりぐらいのことはするけれど、それは「もったいない」という気持ちが一番大きい。その辺は娘にも伝わってしまっているかもしれない。

私も遊び心のあるものを何か娘に作ってあげようかな・・そう思いつつ娘の部屋を見回して気付いた。娘ときたら人形があまり好きじゃないと言って、持っているのはぬいぐるみばかりだ。ううむ。だとすると、私が作れるのは、巨大ラスカルの腹巻ぐらい・・? 母親が娘のために一針ヒト針心をこめるものとしては、あまりにも夢がないかなあと苦笑してしまうのだった。

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貸すということ(本題)・その後

先日の私の誕生日。特に大きな事件もなくゆったりと過ぎて、娘からは画用紙いっぱいに描かれたバースデーカードをもらい、夫からは帰るコールで「ケーキでも買っていこうか」と言ってもらえた(実際には太りたくないので辞退したけど・・)。私にとってはそんな良い日だったのだが、同じ誕生日である母は冴えない一日だったらしい。母がでかけたのは弁護士事務所だった。祖母のことで相談に行ったのだ。

ここにも何度か書いているのだが、祖母は田舎で祖父と二人で暮らしており、二人とも元気ではあるものの判断力はなくなっていて、そのせいで様々なトラブルをかかえている。先日もシロアリ駆除の業者にだまされかけ、近所に住む親戚の男性に行ってもらってようやく撃退できた。見積もりには悪評高い換気扇を数台設置することが書かれており、家の建坪も大幅に割りまして計算されていた。

まあ、でも、それでも換気扇や駆除剤という現物が残るだけましかもしれない。それ以上に厄介なのは、以前、「貸すということ(本題)」で詳しく書いた貸したお金のことである。

あの記事を書いてから、実は色々なことが分かった。なかなか祖母は本当のことを言おうとしなかったのだが、さすがに祖母自身困ったと思ったのだろう。色々なものを金庫から出してきた。追加で貸した(それ自体私には信じられない・・)借用書(実際はメモ程度)が数枚。それだけでもかなりの額になっていた。祖母は田舎に住んでいるから人にお願いしないと銀行にもいけない。銀行にいけても、出入金の手続きができない。借りている人物は自分の車で祖母を銀行まで連れて行き、その場で手続きを代行し、カウンターで渡されたお金をそのまま自分のポケットへ入れるという悪質さであった。そして返済はほとんどない。祖母は何度も電話したようだ。それでものらりくらりとかわされる。そういうことが続くうち、ようやく「これは返す気がないのかな」と気付いたらしい。

祖母の許しが出て、母は解決に乗り出した。まずは内容証明で返済を要求。無視されると裁判所へ出向いて調停を申し出た。が、相手は現れない。別につきつけられた証拠に異議を唱えるわけでもない。「今日は仕事があって」とか、「体調がすぐれなくて」とか、そのたび違う理由をつけては当日裁判所に電話してくるのである。当初は調停までといっていた母が怒り出した。あまりにも誠意がないというのだ。

次は弁護士さんに相談することにした。が、翌日母はがっかりした様子で電話をかけてきた。「裁判するにしても、相手から返済されるようには思えない。お金もかかるから、お勧めできない」と言われたのだという。もう打つ手がないと知り、母は落胆していた。

結局泣き寝入りしかないのだろうか。それでも、お金が戻ってくるかどうかはともかく、年寄りからお金を巻き上げ、なんのお咎めもないというのがやはりどうも納得がいかない。全額は無理なのだとしても、一月に1000円でも2000円でもいいから返済しているのなら、こちらの心持も違うのだが。

母が祖母に弁護士さんの見解を伝えると、こう言ったそうだ。「仕方がないねえ。人にお金なんて貸すもんじゃないんだねえ」その言葉を聞いて、私と母は脱力するばかりだった。

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私が生まれた日

私の父と母はお見合い結婚だった。10月に見合いし、11月に打ち合わせをし、12月、三度目に会ったのが結婚式だったという。「当日、式場で相手が分かるかどうか、不安だった」というのだから、今では考えられないことだと思う。

相手をよく知らないまま一緒に暮らし始め、そしてすぐに私が宿った。が、「あの頃から、どこか抜けてた」と母が言うとおり、9月末の予定日を過ぎてもいっこうに生まれる気配がない。あまりに遅くなるとよくない、というので、母は入院させられ、色々な処置を受けたらしい。

今は里帰り出産も当たり前だが、当時はどれくらいの人がしていたのだろう。母は父の仕事の関係でそれぞれの実家から遠く離れたところに住んでいたから、当然、里帰りしたかったようだ。が、祖母、つまり、母にとっての姑が許さなかった。母が里帰りすれば父は一人で暮らさなければいけない。かわいい息子に不自由させるのはまかりならん、というわけだ。

祖母は聡明で優しい人だったが、とにかく父を溺愛していた。それは孫の私から見ても明らかだった。祖父を戦争で亡くし、女手一つで父を育てあげたからなのかもしれない。たまに私たちの家にやってくると、夕方からそわそわと窓辺に立ち、ずっと父の帰りを待っているのである。帰ってくれば父の周りから離れず、食事の間中横にいてあれこれと世話を焼く。なかなかに異様な光景だった。

そんなわけで、母は身の回りの世話をしてくれる人もなく病院に入院していたわけなのだが、10月に入って少しすると、祖母が見舞いにやってきた。当時はそこまでたどりつくのに一日がかりだったから、あらかじめ予定された訪問だった。生まれたばかりの孫に会うつもりだったのだ。

それでも、祖母はまだ私が生まれていないことにあまり落胆していなかったらしい。「きっとこの子は10月10日に生まれるよ」とにこにこして待っていた。10月10日というのは、父の誕生日なのである。が、10月10日も何事もなく過ぎてしまう。さすがに祖母はがっかりしてしまった。もうこれ以上待っていられないからと、他の観光地へと移動していった。父をお供に従えて。

二日後、ようやく私は生まれた。でも、病院の人が父に連絡をとろうとしてくれても、居場所が分からない。祖母についてまわっていたからだ。「あんな恥ずかしいことはなかった」と母は後で憤慨していたが、そういう問題ではない気がする。

10月12日。それは父の誕生日ではなく、母の誕生日だった。もしかしたら、と思う。それは母の意地だったのかもしれない。

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お詫び

前回の記事のコメントにもちらっと書いたのですが、ちょっと落ち込む出来事がありまして、まだ気持ちをひきずっております。こんなときに何かを書いても、きっと愚痴になるか、いつもとは違う筆致になるのではないかと思います。

もし、楽しみに読んでくださる方がいらっしゃるのならば申し訳ないのですが、しばらく筆をおきたいと思います。元気になりましたら戻ってまいります。

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